About DEMEL
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History
History 01.
「デメル」という名に
秘められた物語
オーストリア・ウィーン。かつてこの地では、「ツッカーベッカー」と呼ばれる菓子職人たちが皇帝や王侯貴族たちに召しかかえられ、その腕をふるっていました。希少な存在だった砂糖と、独創的なセンス、磨き抜かれた技から生み出されるお菓子の数々は、まさに芸術品のようだったと伝えられています。
ときは1786年……そんな「ツッカーベッカー」のひとり、ルートヴィッヒ・デーネ。デメルの物語は、彼が王宮劇場の舞台側入り口の真向かいで小さな菓子店をはじめたところから幕を開けます。
1799年にルートヴィッヒが亡くなると、その息子・アウグストが店を継承。やがてアウグストは政界への進出を決意し、当時の職人長であったクリストフ・デメルに店を譲り渡しました。「デメル」は、彼の名を冠して生まれた店名なのです。
クリストフの死後は、息子であるヨーゼフとカールが店を継ぎ、店名を「クリストフ・デメルの息子たち(Ch. Demel’s Sohne)」に改名。デメルの名前とお菓子づくりの物語は、今なお、脈々と受け継がれています。
History 02.
ハプスブルク家の紋章を
シンボルに掲げる
ヨーロッパの歴史の中で、長きにわたって栄華を極めたハプスブルク家。デメルのお菓子は、時の皇帝や王侯貴族たちの舌を大いに喜ばせ、1799年にはウィーン王宮御用達菓子司に指定されました。時代をこえ、今日までシンボルとして掲げてきたブランドマークは、ハプスブルク家の紋章をいただいたもの。ロゴに記されている「K.u.K.HOFZUCKERBÄCKER」は、“宮廷御用達の菓子店”という意味をもっています。
History 03.
現代へと続くデメルと
王宮のつながり
王宮劇場に寄り添うかたちで200年をこえる歴史を刻んできたデメル。かつては王宮劇場と地下通路でつながっており、劇場で催しがあるときは地下からお菓子を運び、賓客たちをもてなしたといいます。1888年、王宮劇場の移転に伴って、デメルも現在のコールマルクト14番街へと店を移しました。この場所もまた、宮殿を正面に望む路地にあり、デメルと王宮の深いつながりを感じさせます。
〈 参考文献 〉
『無形文化遺産ウィーンのカフェハウス~その魅力のすべて~』
沖島博美 / 河出書房新社 出版
Wien
Wien 01.
17世紀から今に続く
「カフェ文化」の街
ウィーンを語る上で欠かすことのできないエッセンスといえば、音楽と芸術、そして2011年に無形文化遺産に登録された「カフェ文化」ではないでしょうか。
ウィーンにコーヒーがもたらされたのは17世紀のこと。1683年、ウィーンの侵攻に失敗し撤退を余儀なくされたトルコ軍が、大量のコーヒー豆を遺していきました。伝令役としてウィーンの勝利に貢献し、コーヒーへの造詣が深かったコルシツキーという男が、そのコーヒー豆を戦利品として所望し、カフェを開いた……それがウィーンの「カフェ文化」の発祥だと、長く信じられてきました。しかしこの逸話は、近年の研究によって創作だったということが明らかになっています。実際には1650年頃すでに人々の間でコーヒーは飲まれていたとか。つくり話だったとはいえ、コーヒーをめぐる物語が市民の間で語り継がれてきたことも、「カフェ文化」の街らしいエピソードのひとつと言えるかもしれません。
Wien 02.
「カフェ文化」は多くの
文化の発展にも寄与
17世紀からウィーンに根付きはじめていたコーヒーと「カフェ文化」は、18世紀から20世紀初頭にかけて黄金期を迎えることとなります。その間、現代にその名を残す数多の芸術家や知識人たちも、カフェを愛用してきました。音楽界の巨匠であるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンやフランツ・シューベルトはカフェでコンサートを開き、カフェ文士と呼ばれた作家ペーター・アンテンベルクは、その異名に違わず、カフェで作家活動に勤しむ日々だったと伝わっています。その他にもジャーナリストや建築家、心理学者といった人々も集っていました。そう、ウィーンのカフェは、芸術や流行の発信地でもあったのです。
Wien 03.
ウィーンの「カフェ文化」を
見つめ続けてきたデメル
ウィーンには今も、伝統あるカフェやコンディトライが数多く残されています。デメルもそのひとつ。創業以来200年以上、手作りのウィーン菓子の数々でお客さまをお出迎えしてきました。デメルの店内は、左手にケーキ売り場、右手にチョコレートや焼菓子、2階がカフェになっており、今日もウィーンの住民や世界各国から訪れた人々が、お菓子や軽食とともにコーヒーを楽しんでいます。
ウィーンの街が1年で最も輝くクリスマスマーケットのシーズンは、デメルも一層にぎわう時。クリスマスを保養地で過ごす家族が、デメル名物のひとつであるクッキーを求めてつくる行列や、ショーウィンドウの華やかなデコレーションも、ウィーンの街の風物詩となっています。
Episode
Episode 01.
時の皇太子夫妻が
こよなく愛したデメル
1848年から1916年にかけて在位した皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、ハプスブルク家の長い歴史の中でも特にデメルを愛した人物といわれています。中でも惚れ込んでいたのが「アンナ・トルテ」。3代目女主人アンナの名を冠するお菓子が、ハプスブルク家の寵愛を受けたことによって、デメルの名はウィーン中に知れ渡ることになりました。また、フランツ・ヨーゼフ1世の妻エリーザベートは、夫の誕生日にデメルのイチゴジャムを贈った、という記録も残されています。皇太子夫妻の愛は、デメルを通じて育まれた……と語り継がれているほどです。
Episode 02.
王侯貴族を瞬く間に魅了した
「ザッハ・トルテ」
今日も世界中の人々が愛してやまないお菓子、「ザッハ・トルテ」が誕生したのは1832年。時のオーストリア宰相メッテルニヒは突如夕食に客を招き、食後のデザートを出すようコックに命じました。しかしコック長が不在だったため、見習いコックのフランツ・ザッハが厨房に立ちます。彼は創意工夫の末にオリジナルのチョコレートケーキ、後に「ザッハ・トルテ」と呼ばれるデザートをつくり上げました。メッテルニヒをはじめ賓客は、その濃厚な味わいに大いに満足し、直々にフランツ・ザッハにねぎらいの言葉をかけたといわれています。当時の身分制度を考えると、まさに異例ともいえる出来事でした。「ザッハ・トルテ」は果たして、アンナ・トルテ同様フランツ・ヨーゼフ1世のお気に入りとなり、毎日のように食卓に並んだと伝えられています。
Episode 03.
7年にもわたるザッハ・トルテの
「甘い戦争」
銘菓ザッハ・トルテのレシピは、フランツ・ザッハの次男エドゥアルトが開いた「ホテル・ザッハ」の中で、極秘に受け継がれてきました。しかし1934年、エドゥアルト・ジュニアがデメルとライセンス契約を締結。門外不出のレシピがデメルに伝わったことが問題となり、1938年にはザッハとデメルの争いが表面化しました。1952年には法廷にまで持ち込まれ、ようやく判決が下ったのが1962年。途中、幾度となく中断されながらも続いた「甘い戦争」に費やされた時間は、実に7年にもおよびました。なお、下された判決は「『ザッハのザッハ・トルテ』には、丸形のチョコレートの封印を、『デメルのザッハ・トルテ』は三角の封印をつけること」という内容。無事存続することができた両者のザッハ・トルテは、今日も全世界の人々に親しまれています。